プラモデルは一生楽しめる趣味。その魅力を後世に伝えていきたい

2019年、創刊50周年を迎えた日本を代表する総合ホビー誌・月刊ホビージャパン。 同誌の編集長を務める木村学さんは、モデラー(※1)として現在も誌面に掲載するためのプラモデルを作り続けています。プラモデルと出会い、プロモデラーとなったのち、営業職から編集長へ…。 その経緯をお伺いするとともに、木村さんが胸中に抱く夢についても語っていただきました!

※1 プラモデルや鉄道模型などの、模型制作を趣味とする人のこと。模型制作を仕事としている場合、プロモデラーと呼ぶ。

1970~1980年代に到来した空前のプラモデルブーム

──プラモデルに興味を持ったきっかけをお聞かせください。

木村さん(以下、敬称略):

僕は1970年生まれですが、この世代は多かれ少なかれスーパーカーブーム(※2)とガンプラブーム(※3)の洗礼を受けています。 僕自身もスーパーカーブームの影響で車のプラモデルを作り始めたのですが、小学校の高学年になったときに、突然、クラスのみんながガンダムのプラモデルを作り出したんです。 「このロボットはいったい何?」と思いましたが、僕はかたくなに「プラモデルを作るなら車だ!」と思っていました。

※2 スーパーカーとは、主にスポーツカーなどの高性能で特徴的なデザインの自動車を指し、1970年代後半のレース漫画などをきっかけに一大ブームになった。 全国各地でスーパーカーの展示会が開催され、スーパーカーを題材にしたテレビ番組やテレビアニメが制作された。
※3 アニメ「機動戦士ガンダム」に端を発し、さまざまなガンダムシリーズの作品に登場するロボットなどを題材にしたプラモデルを「ガンプラ」と呼ぶ。 アニメ放映後の1980年以降、爆発的なブームとなり、当時の少年たちはこぞってガンプラを制作していた。

──では、当初はガンプラにはあまり興味がなかったんですね?

木村:

いえ、それがすぐに作り始めましたね(笑)。きっかけは、友達みんなで集まってプラモデルを作っているときに、僕が作っていた車を友達が踏んでしまったことです。 もう、ぺったんこになってしまって。踏んだ友達から「スーパーカーみたいでかっこいいじゃん!」って言われて、何かがプツンと切れました(笑)。それで「もういいや!」と思ってガンプラに切り替えました。
ガンプラにどんどんハマっていったきっかけは、書店で見つけた「HOW TO BUILD GUNDAM」(※4)という本との出会いです。 プラモデルはピカピカに仕上げることが基本だと思っていたのですが、この本はミリタリープラモデルの手法をガンプラに持ち込んで、「アニメロボットをリアルに作る」という方法論を提示したんです。 ほかにも凝った工作や塗装方法を知ったのも、この本がきっかけでした。

※4 1981年にホビージャパンより刊行されたプラモデル制作のハウツー本。ガンプラ制作のバイブルとして、現在も愛好家たちの必読書となっている。近年は電子書籍としても復刻した。

ガンプラにハマった木村少年が、いつしかプロモデラーになり、日本を代表するホビー誌の編集長に。 その原点は、作品をみんなに見てもらいたいという純粋な欲求が人一倍あったからだろう。

──ガンプラのハウツー本ですが、小学生には難しい内容だったのではありませんか?

木村:

僕は、父がグラフィックデザイナーで、うちには筆やエアブラシといった道具がたくさんあったんですよ。また、父は1960年代の、第1次プラモデルブーム世代なんです。 だから、子供にプラモデルの作り方を教えることができたんですね。そういう環境もあって、プラモデルにハマりやすかったんだと思います。
振り返ってみると、僕らの世代は第2次ベビーブームで人口が多く、さらに父親がプラモデルづくりを教えることができる世代ですから、ガンプラブームは「起こるべくして起こった」といえますね。

──少年時代の木村さんがプラモデルに魅了されたのは、どんなことが理由だったのでしょうか?

木村:

シンプルに、自分の成長がわかることでしょう。子供は吸収が早いですし、工具や塗料の性能もどんどん上がって、まるで自分がうまくなったように感じましたからね。 完成したプラモデルを見ながら、「俺、またうまくなってるじゃん!」って感激するんです(笑)。それを母親や友達に見せて悦に浸り、模型店に飾ってもらう。 今ならSNSにアップしてみんなに見てもらうことができますが、当時は模型店に飾ってもらうことが最大のステータスでした。

――自分の成長がわかるだけでなく、周囲に作品を見てもらえる。その楽しさに、今も魅了されているのでしょうか?

木村:

プラモデルのおもしろさは、ゴールがないことです。作る回数を重ねるごとに、技術が向上していく。これほど成長が実感できる趣味はありません。 同じプラモデルをもう1回作ったとき、自分は確実にうまくなっていると感じられると思います。
また、プラモデルは誰が作っても、同じ物になりません。100人が同じプラモデルを同じ手法や塗装法で作ったとしても、100パターンの異なる完成品ができるんです。 必ず自分だけのオンリーワンができることも、プラモデルが持つ大きな魅力のひとつでしょうね。

──プラモデル自体も進化を遂げているのでしょうか?

木村:

プラモデルは、今も進化し続けています。特にガンプラが残した功績は、プラモデルの発展に影響を与えていると思います。さまざまなメーカーのプラモデルも進化をしているのですが、 バンダイが手掛けるガンプラの進化の幅と速度は、すさまじいものがありますよ。作るたびに驚きや感動がありますが、それが2~3ヵ月ごとにやってくるんです。
これは、プラモデルメーカーだけではなく、材料となるプラスチックや工具、そして塗料のメーカーなど、関連する業界全体がものすごい向上心を持って取り組んでいることも大きいですね。 もし、数年ぶりにプラモデルを作ってみようと思う人がいたら、現在のプラモデルの作りやすさと道具の使いやすさに驚くのではないでしょうか。

木村さんが、1体わずか2時間で制作したプラモデル。パーツは元から劇中の色が再現されており、切り取って組み立てるだけでも上手に作ることが可能だ。 木村さんはこのプラモデルに、初心者におすすめの「簡単フィニッシュ」という仕上げ方を施して、完成度を高めている。

プロとしてプラモデルに取り組むこと

──現在は編集長ですが、前身はプロモデラーとして活躍されていますよね。そもそも木村さんがプロのモデラーを志したのは、いつからだったのでしょうか?

木村:

明確にプロになろうと思ったわけではありませんが、きっかけは大学時代ですね。実は中学・高校はかなり本気で野球に取り組んでいて、プラモデルから離れていたんです。 ただ、肩を痛めたこともあって、野球は高校でやめようと決めました。
「じゃあ野球をやめてどうしようか…」と思ったとき、デザイン関係を目指そうと思ったんです。父がグラフィックデザイナーだったこともありますし、自分も手先がわりと器用でしたからね。 ちょうど進学予定の大学に、芸術学科デザイン学課程があったのもラッキーでした。

──ちょっとプラモデルも関わりがありそうな雰囲気の学課ですね。

木村:

そうなんです。芸術学科ということもあって、アニメなどエンターテインメント系が好きな人間がいっぱいいるわけです。 ある日、ゼミのM君がHG(ハイパーグレード)というシリーズのプラモデルを買ってきたんですが、これが久しぶりに再会したガンプラでした。
HGはガンプラ10周年で発売したガンプラのシリーズ製品なのですが、とにかく技術の進歩に驚きました。 色を塗らなくても部品はすべて塗り分けされていますし、昔は不可能だったアニメ中のギミックも再現されている。「ガンプラって今、こんなにすごいの!?」って衝撃を受けましたね。
それから「みんなで1個作ってみようぜ」となって、久しぶりにプラモデルづくりに復帰しました。みんな芸術系ですから、プラモデルを作るのもうまいんですよ。 ゼミにはエアブラシもあって、道具もそろっていますし。まぁ、環境がそろいすぎていましたね(笑)。

──ゼミで作り始めたときは、まだ趣味としてプラモデルを楽しんでいた段階ですよね。

木村:

仕事になったのは、「コミックボンボン」(※6)に作例(プラモデルの制作例)を載せたのが最初です。M君の先輩がコミックボンボンの編集に関わっていて、「誌面に載せる模型を作る、 モデラーのアルバイトをしないか?」という話を持ち掛けられたんです。家で完結できるアルバイトというのは魅力でした。
デザイン学課は課題が多くて、外でアルバイトをするのは難しいんです。でも、お金がなければ画材も買えません。プラモデルはすべて家の中で完結しますから、うってつけのアルバイトでした。

※6 2007年まで講談社から刊行されていた月刊児童漫画雑誌。2017年にpixivコミックとしてウェブ版が刊行されている。

──コミックボンボンへの掲載がプロへの第一歩だったんですね。

木村:

コミックボンボンの仕事から、バンダイがホビーショーで展示する商品見本を作るアルバイトにつながって、さらにプラモデルのパッケージ用の塗装見本を作る仕事も担当するようになりました。
そして、ホビージャパンに関わるようになったのも大学時代です。当時のホビージャパンの編集長がモデラーを探しているときに、バンダイが紹介してくれて、編集部でモデラーとして活動を始めました。

木村さんが学生時代に担当したホビージャパンのページ。執筆・プラモデルの作例も担当している。

──進路については、どのように考えていましたか?

木村:

卒業後は、メーカーのプロダクトデザインの道に進む人が多かったですね。僕自身は出版に携わるアルバイトをしていましたし、本のデザイナーや編集になることを意識していました。 ホビージャパンでも、ちょこちょこ記事を作ることもあって、編集という仕事のおもしろさも感じていましたから。
そんなとき編集部で作業をしていると、当時のホビージャパンの社長から「君、営業向きだよね。来年からうちで働きなよ!」と突然声をかけられまして。それをきっかけに入社しました。

──編集ではなく、営業として入社されたんですね。

木村:

そうですね。ただ、編集部とのつながりもあったので、入社した後も作例の仕事をなぜか担当していました。 営業回りから帰ってきたら、机の上にテストショット(試作品)が置いてあって、「2週間後の表紙だからよろしく~」とメモが貼られていましたね(笑)。
ホビージャパンは当時から営業・編集ときっぱり分かれているわけではなかったんです。「みんなでいっしょに作り上げる」という社風がありまして、忙しければ営業でも手伝うことは珍しくありませんでした。

──しかし、作例を社内の別部署に発注するというのは異例ですよね?

木村:

まぁ、手っ取り早かったんでしょう。モデラーとしての実力もわかっている。毎日出社するから、締め切りをぶっちぎって音信不通になることもない。 だから、無理なスケジュールの企画ばかり担当させられました(笑)。
僕自身も作ることは好きでしたから、営業は仕事、編集の手伝いは趣味という気持ちでやっていたと思います。徹夜で表紙用のプラモデルを作り、そのまま出社して営業の仕事に行くこともありました。

左:初めて手掛けた作例がホビージャパンの表紙に採用される(写真右側のプラモデル)。 /右:木村さんが企画に携わって開発されたMG(マスターグレード)というプラモデルシリーズ。その作例が表紙に採用されている。

プラモデルの未来を見据えて

──営業から編集になったのは、どのような転機があったのでしょうか?

木村:

本格的に編集になったのは、一度ホビージャパンを退社した後です。僕はずっと営業畑ではあったのですが、 転職先になる模型誌から「営業的な視点を持った編集者が欲しい」と言われたことが編集になったきっかけです。模型誌は、プラモデルや周辺メーカーとのつながりが強くなるにつれ、 折衝ができて交渉能力ある編集者が求められるようになっていたんです。確かに、金額の交渉や条件を有利に導く話し合いには、営業の経験が非常に役立ちました。 その後、ホビージャパンに復帰したときも、他社の模型誌の経験に加え、営業経験も評価されていたと思います。

──現在は編集長という立場ですが、どんなスタンスで取り組んでいますか?

木村:

僕は、プラモデルも本も作ることが大好きで、常にプレイヤーでありたいと思っているんです。ですから、編集長に就任するときも、「プレイングマネージャーでやらせてください」とお願いしたくらいです。 そうして編集実務も、作例も作る編集長になりました。

アニメのワンシーンをプラモデルとジオラマで再現した、木村さんの2019年の作例。編集長という立場でありながら、モデラーとして作品を作り続けている。

──では、ホビージャパンの誌面づくりで心掛けていることは何でしょうか?

木村:

基本的には「王道」です。ホビージャパンはプラモデルシーンの真ん中にいて、「プラモデルを作りたい」と思ったときに、いつでも存在している雑誌でなければなりません。 そのためにはガンプラに限らず、あらゆるカテゴリーのプラモデル、ホビーを見せていくということを念頭に置いています。
誌面構成的にもガンプラを取り上げることが多いのですが、まったく別なロボット作品や美少女フィギュア、車や戦車もあれば、飛行機などのプラモデルもあります。 ホビージャパンを窓口にして、「飛行機もおもしろそうだな」とか、「車もちょっと作ってみようかな」と思ってもらうのが、僕らの役目だと思っています。 そこから業界全体が盛り上がっていけば、プラモデルはさらにおもしろくなりますからね。

──プラモデルを通して、木村さんが抱いている夢をお聞かせください。

木村:

かつて、ホビージャパンを読んだ少年たちが成長し、現在は彼らの子供たちの多くが10代、ちょうどプラモデルを作り始める年代です。 ここで僕自身がそうだったように、また「お父さんといっしょにプラモデルを作る」という流れを作りたいと思っています。おそらく、ここ数年が若年層にプラモデルを広げる最後のチャンスだと考えています。 これは、10年後、20年後を見据えて、プラモデル文化を継承していこうという試みです。
大切なのは、子供時代にプラモデルを体験していくこと。そうすれば、一度離れてもまた戻ってくることができる。 大学生になっても、社会人になっても、いつでも復帰できるのがプラモデルという趣味の利点です。

──現在取り組んでいる、具体的な試みはありますか?

木村:

ホビージャパンは総合ホビー誌ですから、興味のないジャンルも扱っているかもしれません。 そこで、ガンプラの情報だけ読みたい、フィギュアの情報だけ読みたいという読者のために、各セグメントに特化した低価格の本も作り始めました。
それらの本を読んで、「もっと詳しく知りたい!」と思ったら、「次はホビージャパンがあるよ!」という取り組みとなります。 先程申し上げたように、ホビージャパンをハブにして、さまざまなジャンルのプラモデルに興味を持ってほしいというのが願いです。
時代の変化に合わせてホビージャパンもマイナーチェンジは繰り返していくと思いますが、この本はプラモデルシーンのメインストリームにいます。 きっと10年後、20年後にホビージャパンを読んでいただいても、変わらぬスタンスで存在しているはずです。

──今後の夢が広がりますね。

木村:

僕自身は体力が持つ限り、死ぬまでプラモデルを作り続けたいです。プラモデルはまず買うことが楽しくて、箱を開けて想像するのが楽しくて、作る過程が楽しくて、完成したら反省することも楽しい。 わずか数千円で、こんなに楽しめる趣味はほかにありません。
リタイアしたら田舎で細々とプラモデルを作って、のんびりと暮らしたいですね。今はSNSにアップすればみんなに見てもらえる時代じゃないですか。どこで作っていても自慢できますからね(笑)。
そう考えると、これからのプラモデルは、シニアユーザーも視野に入れて開発をする必要があるでしょう。子供からお年寄りまで、全方位でプラモデルを楽しめる未来になるとうれしいですね。

<プロフィール>
木村 学(きむら まなぶ)
1970年、大阪府生まれ。大学生の頃よりプロモデラーとして「月刊ホビージャパン」(ホビージャパン)と関わり、そのまま入社。営業部で働きながら雑誌に作例を掲載し続ける。 その後、「電撃ホビーマガジン」(アスキー・メディアワークス)の立ち上げに参加。2015年にホビージャパン編集部に復帰し、月刊ホビージャパンの編集長に就任する。 編集長として雑誌づくりをしながら、雑誌に掲載する作例を制作したり、編集長兼モデラーとしてイベントに参加したりするなど、多忙な日々を送っている。

●月刊ホビージャパン

株式会社ホビージャパンが発行する、日本を代表する総合ホビー誌。1969年から刊行され、2019年に50周年を迎えた。 アニメやゲームのキャラクターのほか、ミリタリーや自動車など、さまざまなジャンルの模型やおもちゃを中心に扱っている。毎月25日発売。
月刊ホビージャパン公式サイト:http://hobbyjapan.co.jp/hobbyjapan/

※2020年6月に取材しました

 

執筆者プロフィール

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